田晴通 前会長の想い出

常任理事 岸田康博
(会報『丹波』1号2016年刊掲載)

 田晴通さんとお会いしたのは、三十二年前の昭和五十九年十一月でした。その
時、田晴通さんは、眼鏡レンズの販売と、眼鏡レンズの生地を輸入する会社の社長
でした。

 私はご縁があって、当時の「関西氷上郷友会」会長の田季晴さん(晴通さんの父)にお会いし、三和金属工業株式会社に入社してすぐに、晴通さんの眼鏡レンズ販売会社の「三和光学株式会社」へ出向しました。
 昭和四十八年十一月発足の「三和光学株式会社」は、米国コーニング社、米国ボシュロム社と取引、「レーバン」サングラスレンズの生地の総輸入元であり、その生地を加工して、全国を販路に「レーバン」サングラスレンズの国内で唯一の販売会社でありました。また、その他一般眼鏡レンズを、国内眼鏡卸業者、大手眼鏡販売店等へ、東北以西沖縄まで販売していました。晴通さんと私は同学年で、三和光学株式会社で私は営業部長として、その後七年間ご一緒にお仕事をさせていただきました。

 晴通さんは、当時から「皇太子さん」との渾名があり、そのお人柄は温厚で、誰からも好かれる人でした。「怒られた」ということはなかったように思います。常に勉強家で、外部の「話し方教室」へも通われており、その話術は、ユーモアにあふれ、人をあたたかく包み込むやさしさがありました。みんなを引き付ける魔力がありましたね。

 お得意先へ同行していただいた折も、おだやかで、誠実なお人柄なので、客先での評判もよく、商売がうまく運んだことも、何度もありました。その場にいる人を、なごやかにさせる、笑顔の輪を広げる、そんな特技をお持ちの人でした。

 社員の誕生日も、しっかりと覚えておられました。誕生日には、必ずその人に合った品物をプレゼントされていました。女性には、かわいい小物。私は「運動靴」をいただきました。革製の靴でした。当時で一万円以上の製品で、ご一緒に靴屋に行き、私の足に合う靴を買っていただきました。「休日には、しっかり運動して、身体を鍛えなさい」と言われたのを記憶しています。

 その後、この運動靴を永く愛用し、私の体力づくりに役立ちました。他人の健康を気遣ってのプレゼントにも、大変な気くばりを今になって強く感じます。

 社員旅行で、沖縄に行った時のことです。現地でレンターカーを借りて、那覇から糸満の先までドライブしました。私が運転手、晴通さんが助手席。そばから次から次へと指示を出されます。機知にとんだ話しぶりで、笑いあり、一切退屈させません。とに角、知識豊富。一緒にいて、楽しい人でした。

 沖縄の海を巡る遊覧船に乗るのも、自ら社員の先頭に立ち、率先して行かれました。社員の欲していることをいち早く察知して行動する。みんなの喜ぶことを、よく理解されていたのです。

 社員に対しても、気くばりは満点。そっと飲み物や、お菓子を差し入れされることは、日常茶飯事でした。みんなに愛される社長でした。

「関西丹波市郷友会」の会長に就かれてからも、ずっとご一緒させていただきました。大阪での役員会のあとも、私は阪急梅田駅まで足をのばし、二人で歩いて帰り、いろいろご教示をいただいたものです。

 最後にお会いしたのは平成二十六年三月八日の「関西丹波市郷友会」の役員会でした。体調がよくないことは言われていました。役員会の閉会後、いつものようにご一緒に帰ろうと、私が帰り支度で手間取る間に、晴通さんは先に帰られました。

 これまで、いつもご一緒だったのに、この日は早かったのです。今から思えば体調がすぐれなかったのかもしれません。

 そして、十月十五日、田晴通さん死去の報せを足立敏さんから受けました。ショックでした。享年七十五才でした。

 十八日の大阪千里会館での葬儀は、多くの参列者でした。生花が式場の周囲を取り巻きました。

 翌十九日「第一○四回関西丹波市郷友会」が、宝塚ホテルで開催されました。田晴通会長の想い出がいっぱい詰まった「関西丹波市郷友会」が……。

 今も、田晴通さんを想い出すたび、私の涙の枯れることはありません。

平成23年の第101回総会で田晴通前会長と(右筆者)