歴代会長のご紹介

初代(1899~1938年) 田艇吉(でん ていきち)

 1852年、柏原町下小倉生まれ。豊岡県福知山市庁に勤務後、上京。26歳で警部となるが、家督を継ぐために帰郷。
 1879年(明治12年)、廃藩置県(1868年)後初めて行われた県議選に当選。氷上郡長も兼務した。1891年(明治24年)に衆議院議員に当選。鐘が坂トンネルの開通(1883年)や阪鶴鉄道(現福知山線)の建設(1899年池田ー福知山開通)に力を注いだ。阪鶴鉄道社長のほか、住友総本店支配人なども務め、電燈、炭鉱、銀行などの事業にも関わった。
 1925年(大正14年)、余生を送るべく柏原に帰る。1938年(昭和13年)死去。享年87歳。

第2代(1939~41年) 有田邦敬(ありた くにゆき)

 1883年、氷上町谷村生まれ。旧制柏原中学の第1回卒業生。
 京都大学法学部卒業後、内務省から逓信省へ。大阪の逓信局に勤務時、池上四郎大阪市長から抜擢され32歳で市助役に。市営地下鉄や御堂筋、下水道施設整備など大阪の都市基盤の近代化に力を尽くした。
 1928年(昭和3年)、経営危機にあった京阪電鉄の副社長に就任、その後社長となって再建を果たした。1941年(昭和16年)、59歳で急逝。

第3代(1942~1958年) 上田要(うえだ かなめ)

 1885年、春日町棚原生まれ。
 小学校卒業の頃に家運が傾いたため、名古屋銀行(その後東海銀行、現三菱東京UFJ銀行)京都支店に丁稚として就職。夜学に通いながら正社員となり、1916年(大正5年)大阪支店の支店長に。その翌々年、32歳で独立し、大阪に短資業「上田商店(現上田八木短資株式会社)」を設立。
 母校の進修小学校へ奨学基金を贈るなど、故郷への思いも人一倍深かった。1976年(昭和51年)死去。享年91歳。

第4代(1959~1963年) 永井幸太郎(ながい こうたろう)

 1887年、山南町下滝生まれ。
 神戸高商(現神戸大)卒業後、外資系石油会社に就職したが、高商同期の高畑誠一に誘われ神戸の鈴木商店に入社。日本経済をリードした同社が金融恐慌で倒産(1927年)した後は、高畑らと協力し「日商株式会社(その後日商岩井、現双日)」として再興。
 戦後の一時期は貿易庁長官や甲南学園理事長も務めた。1983年(昭和58年)死去。享年95歳。

第5代(1964~1983年) 荻野益三郎(おぎの ますさぶろう)

 1897年、青垣町東芦田生まれ。
 旧制柏原中から一高、東京大学法学部に進み、戦時中に一時司法省にいたほかは一貫して判事を務め、大阪地裁所長、札幌・福岡・名古屋・大阪の各高等裁判所長官を歴任。1962年(昭和37年)に退官後は弁護士に転じ、大阪府の法律顧問として活躍した。
 1984年(昭和59年)死去、享年86歳。

第6代(1984~1989年) 田季晴(でん すえはる)

 1911年、柏原町柏原生まれ。
 柏原中卒業後、山口銀行(後に三和銀行)を経て独立、1946年(昭和21年)三和金属工業(現サンキン株式会社)を設立。多くの関連会社を擁する屈指の優良企業に育て上げた。他にも多くの事業を設立し、社長に就任したと伝わる。1952年(昭和27年)には三徳信用組合(後の東洋信用金庫、三和銀行)を設立、理事長に就いた。
 田捨女直系11代目の子孫(田艇吉、健治郎らの田家は分家)で、散逸していた捨女関連資料を収集、柏原歴史民俗資料館の別館として「田ステ女記念館」を柏原町に寄贈した。
 2004年(平成16年)死去、享年94歳。

第7代(1990~1998年) 広瀬巌(ひろせ いわお)

 1914年、山南町谷川生まれ。
 柏原中卒業後、武田化学薬品に入社。兵役帰還後の1947年(昭和22年)、神戸に薬品販売店を開業、広瀬化学薬品として発展させた。ライオンズクラブや更生保護協会などの社会活動にも尽力。

第8代(1999~2014年) 田晴通(でん はるみち)

 1940年生まれ。
 関西学院大学卒業後、三和銀行を経て、1974年(昭和49年)丸十ロッカー株式会社代表取締役に就任。三和光学社長、サンキン会長などを歴任。

第9代(2015~2021年) 有田秀雄(ありた ひでお)

 1946年、神戸市生まれ。
 甲南大学卒業後、山崎製パン㈱を経て、有田産業株式会社入社後代表取締役に就任。
 会長時代に氷上郡6町が合併し丹波市が誕生、中学校体育連盟に4年間をかけて優勝旗25本を贈呈。他に「丹波すくすく大賞」事業の実施、会報「たんば」の創刊など、会の再興に貢献した。

第10代(2022~) 公江茂(こうえ しげる)

 1952年生まれ。柏原高校、甲南大学卒。武庫川学院入職、経理部長、事務局長を経て、学院特別顧問兼監査室長。
 武庫川学院創設者の祖父公江喜市郎から、学院の創設にあたっては郷友会の初代田艇吉会長に、戦災からの復興にあたっては五代荻野益三郎会長に力添えを得たと聞いて育つ。
 現在は、故郷を大切に思っていた祖父の思いを継ぐべく、青垣町の生家に暮らす。武庫川女子大学と丹波市の就職支援協定を締結し、また学生を青垣での農作業体験に招くなど、丹波市と大学との連携に尽力している。
 郷友会第10代会長として、郷土への恩返しを胸に、後進の育成、丹波市の発展に尽くす決意である。

【参考資料】

  • 「関西氷上郷友会 創立100周年記念号」(余田貞雄編纂)
  • 「錚々たるリーダーの下に 関西丹波市郷友会117年の歩み」(小田晋作、会報「たんば」第1号掲載)