私と関西丹波市郷友会

財務理事 足立敏
(会報『丹波』1号2016年刊掲載)

 私が初めて関西氷上郷友会(当時)に関わったのは、1993年(平成5年)11月20日(土)に宝塚ホテルで開催された第84回総会で受付係をさせて頂いた時の事でした。何しろ慣れない事なので、混雑するお客様の対応、会費の徴収、資料のお渡しなどでパニックになりかけましたが、周りの方々に助けて頂いて何とか無事終えることができたことを懐かしく思い出します。

 当時私は三和金属工業㈱(当時)(現在のサンキン㈱)に入社して27年目で総務課長をしていました。当時会社では、創業者である故田季晴氏が取締役相談役を、その右腕とも称される故足立周三氏が取締役会長をされていました。その頃の会社では本社ビルの増改築工事が進行中で、翌年(1994年)の4月には旧サンキン㈱との合併により新サンキン㈱の発足を控えるという、正に盆と正月がいっぺんに来たようなあわただしい毎日を送っておりました。

 そのような中で田相談役がこの会の名誉会長をされていた関係で、会の財務理事就任を要請され、1994年1月に前任の熊澤秀晃氏(当時会社の経理部長)から引き継ぎを受けて、財務理事として賛助金会計をメインに務めさせて頂きました。

 その頃の会長は第7代の広瀬巌氏(故人)が務めておられ、事務所は神戸にある広瀬化学薬品㈱内にあって、総会、役員会の準備や一般会計の手続き全般もそちらでやっておられました。そんな訳で当初は会のお手伝いといってもそんなに手間もかからず、楽をさせてもらっていました。

 ところがその後1998年(平成10年)11月14日に広瀬会長が退任され、新たに第8代会長として故田晴通氏(当時サンキン㈱代表取締役会長)が就任され、同時に会の事務所も現在のサンキン㈱に移されました。当時の私は経営企画室次長として、会社から特別な任務を与えられそれに邁進している時期でした。

 そこに会の事務局として、総会や役員会の準備と一般会計も引き受けねばならないことになりました。事務的なことは当時の会長秘書を担当していた女性にお願いして、総務部からのバックアップも受けて何とかやってきました。また当初は、総会に関する交渉面や準備を担当する係の方が会におられて、その方の指導や助言のもと準備を進めることができましたが、その内その方も総会の係を降りられて、事務局にすべてが降りかかることになりました。

 そのため、総会や役員会においてややもすると事務的に淡々と進めることになってしまい、関係者の方々には誠に申し訳なかったと反省しております。そうこうしている内に月日は流れ、一昨年(2014年)10月15日に田晴通会長が急逝されました。また私事ながら私も昨年(2015年)3月31日を以って会社を辞めることになりました。

 当時この会は会員の高齢化が進み会員の減少から将来の存続も危ぶまれ、役員会の中では解散することも案として検討されるような状況でした。

 しかし、会として116年間の伝統と歴史があり、丹波の青少年育成という意義のある活動を絶やしてはいけないという意見が強まり、現在その活動方法、あるべき姿、体制などを検討し、実施に向けて動き始めました。

「関西丹波市郷友会は今後も発展を続けます」との合意のもとに、会の活動を一般の皆様に広く知って頂き、総会を充実し楽しい実りのあるものに変えて、会員を増やしていく所存です。

 私も微力ながら、これらの活動に少しでも貢献し、併せて自分の退職後のやりがいの一つとして大切にしていきたいと思っています。

 そして、いずれは若く優秀な後任を見つけて、席を譲りたいと考えています。

 それまでは、この会と共に歩んでいこうと心に誓っています。

1996年(平成8年)に新神戸オリエンタルホテルで開かれた第87回総会(100周年記念号より。後列右端が筆者)